東洋証券の歴史は、1916(大正5)年、広島県呉市で株式取引を目的に開業した「斉藤正雄商店」を源流とするものであった。開業当初の斉藤正雄商店は電話を1本引いただけの従業員ゼロの小さな店だった。その頃の呉の街は、株商いについては未開の地であった。しかし、呉市は、日本屈指の軍港であり会社経営者や地元の名士、有力者などが少なくなかった。斉藤正雄は誠実さと人の心を捉えて離さない人柄で、少しずつ事業を拡大していった。
1920年、広島米綿取引所が「広島株式取引所」と名称を変え、株式専用の取引所が誕生。取引所での株式売買に参加するには、政府(商工省)公認の免許「仲買人資格」を得て、取引所の会員になる必要があった。しかし、仲買人の定員はすでに埋まっており、新規参入者が簡単に会員になれる時代ではなかった。会員になれなくても仲買人に手数料を支払うことで、取引所の売買に参加することは可能であった。斉藤正雄は、当面の間、呉と広島を往復し取引所の売買に参加していたものの、1923年、不退転の決意で広島に進出することを決めた。
1934年、斉藤正雄商店の現物部が「廣島証券商事株式会社」として独立し、新たなスタートを切った。廣島証券商事の営業形態は、一つには、創業者自らが陣頭に立ち、地元の名士・資産家等の懐に飛び込み、誠実な人柄と人懐っこい性格で顧客を魅了し、それを社員がフォローし実績を積み上げていくスタイルであった。その一方で、地方の証券会社としては異色の、学卒者を中心としたチームプレーで、法人顧客を開拓するという最新の営業スタイルを取り入れる。社内に調査部を立ち上げ、金融資本、産業資本をテーマに綿密に資料を作成し、銀行、事業会社へ攻勢をかけていった。
1945(昭和20)年8月15日、終戦を迎えた廣島証券商事は、直ちに会社再建に取り掛かった。だが、社屋は全焼し、資金もゼロに近かった。11月に入り、創業者の自宅跡地にバラックの自宅兼事務所が建てられた。営業再開を目指し、事業資金を集め、翌1946年、営業再開を果たす。5月には、銀山町の焼け跡に社屋を再建し、軍隊から復員してくる社員も少しずつ増えて、社内に活気が戻ってくる。1947年7月には商号を「廣島証券株式会社」に変更し、新社屋を建設し移転。新しい時代にふさわしい事業体制が整った。
1954年、廣島証券は法人化(廣島証券商事の発足)20周年の節目を迎え、様々な記念行事が行われた。ここに至るまでに、デフレ政策「ドッジ・ライン」導入による日本経済の低迷や、朝鮮戦争等による世界情勢の混乱等幾度も株式市場の混迷に遭遇しながらも、営業体制をしっかりと固め、地域密着・顧客優先に徹して着実に成長していった。また、斉藤正雄は自社の事業ばかりでなく、広島証券取引所の発展にも心血を注いだ。1951年12月から1953年5月までと、1955年4月から1956年9月までの2回にわたり、理事長に就任し、その間収益構造の改善を図る等取引所の発展に貢献した。
1960年代に入り、政府は金融の自由化、効率化を目指して法整備を進め、銀行業界では合併や業務提携が加速した。中堅・中小の証券会社にとって、生き残りのための規模拡大は、必須条件であり、合併も避けては通れない問題となっていた。そうしたときに持ち上がったのは、東京の名門証券会社である高井証券との合併話である。当時は、証券業界の発展のために4大証券に次ぐ中堅証券会社の必要性を説く論調が語られており、そうした機運の高まりもあり、1967年3月に廣島高井証券が誕生した。商号変更と同時に、本店を東京に移転。経営基盤の強化により、東京および関東圏での顧客サービスの充実が可能となり、収益構造が大幅に向上した。
新社名は「当社の未来を象徴する名前」を条件に、全社員から募集。最終的に最も応募の多かった「東洋証券」が選ばれた。同時に真っ赤な太陽をバックに純白の丹頂鶴が飛ぶ「鶴のマーク」を制定。 「丹頂鶴のように東洋を代表する企業となる」との思いが込められている。
1984年、総合証券の条件であった資本金30億円(当時)をクリア。東洋証券は、「総合証券」への念願を成就させた。当社は、国内16番目の総合証券会社となった。総合証券会社になって2年後の1986年6月、東京証券取引所第二部、大阪証券取引所第二部、広島証券取引所に株式を上場した。東洋証券は、1987年10月、香港に現地法人、東洋証券亜洲有限公司を設立。香港に進出を決めたのは、香港では、法人税率が18%と日本の半分以下で、タックスヘイブンとしてのメリットが大きく、日本企業の進出に拍車がかかっている事、また、国際的な金融市場としての歴史を有し、世界各国の銀行や証券会社が数多く進出しており、当社にとって、海外業務のノウハウ蓄積と国際的な視野を持つ人材育成に最適であったことによるもの。
バブル崩壊後、新たな収益基盤を構築するための成長戦略が策定された。その一つが中国株の取扱いであった。 当時の脇田社長曰く「証券会社の使命は、成長産業を見つけ出し、有望な投資先として顧客に紹介することである。1990年代の世界では、アジア、中でも中国が成長センターとなることは間違いない。これからは、【中国株の東洋証券】という旗を立て、総力を挙げてチャレンジする。高度経済成長期に日本で起きたことが、いま中国で起きようとしている。今度は中国株で、もう一度お客さまにいい夢を見て頂きたい。そして、中国株事業で新しい東洋証券の土台を築き上げる。」と新たな目標に向けて社員の一致団結が呼びかけられた。
2005年に本店を現在の住所に移転。交通至便であり、地域密着のリテール営業に特化した証券会社としては、この条件は、お客さまは訪れやすく、社員にとっては営業活動に便利なロケーションであった。また、2008年5月、東洋証券は中国経済の中心地で、金融センターである上海に現地駐在員事務所を開設した。主要な任務は、中国経済および証券市場の情報収集、中国、日系、外資系等の企業動向調査、本店への情報提供および中国の国内の証券会社等関係先との連絡先の窓口等に加え、中国での日本株情報の提供等。
新たな顧客サービスの提供と、安定的な収益確保を目指し、2012年3月より米国株の店頭取引を開始。また、2014年12月上海証券取引所のメイン市場である人民元建てA株市場に、直接参加する取引サービスの提供を開始。上海A株の取扱い開始により、当社の中国株事業は、新たなステップを踏み出した。そして、2016年12月、当社は創業100周年の大きな節目を迎えることが出来た。