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巨龍のあくび

第58回:統計数字の怪

古典芸能の落語には「枕(まくら)」というイントロダクションがある。本筋に入る前に演目に関連する小話を披露して聴衆をリラックスさせ、聴衆の意識をこれから披露するストーリーに引きつけようとする話芸であり、「枕」の効果は大きい。これは講演会の「つかみ」にも通じるものがあると思う。生来の口下手、筆下手が何の因果か、講演や執筆で糊口を凌ぐ生活を送ることになり、講演技術を少しでも向上させようとして、これまであまり興味のなかった落語や漫才等を聞くようになった。落語と講演は似て非なるものだが、導入部の重要性は共通している。

筆者の講演は仕事がら中国経済に関するものが多く、その目的は聴衆の方々に中国への興味と関心を持っていただくことにある。そのための仕掛けとして最近講演のプロローグでは「逆張り戦術」敢えて中国を嗤う話題を持ってくることが多い。例えば中国で氾濫するコピー商品、早い話がニセグッズ問題。スクリーンにニセブランドを売る露天商たちの姿を映しながら「え〜中国では全てがニセモノ、本物は詐欺師とペテン師だけであります」と切り出せば必ず受ける。中国の関係当局の方々がお聞きになれば不快感を示されるだろうが、中国を好きになってもらうために親中派の論客(筆者のことです)が涙を呑んで行う講演であり、この程度の「枕」はご海容賜りたい。

さて枕はこのくらいにして、こないだの日曜の日本経済新聞にレスター・サロー(MIT=マサチューセッツ工科大学名誉教授)のインタビュー記事が大きく掲載されていた。サロー先生は断言する。「中国の経済成長は、今年は年率10%だと言われているが、これは怪しい。10%成長は都市部に限った話で、地方に住む9億人はゼロ成長だ。中国全土が10%成長するには都市部の4億人が33%しなければ牽引できない。地方を含めれば中国の成長率は3%程度だろう」。流石「大接戦」、「資本主義の未来」で有名なサロー教授だけあって、古希を過ぎた今でも歯切れの良い弁舌は衰えを知らないようである。

しかし、この発言は重要である。「SONYならぬSQNY」、「HONDAならぬHOMDA」といったニセグッズを批判するのは大いに結構だが、中国の公式統計がニセモノであれば事は重大である。困ったことに日本人は上海ナントカ大学の陳ナニガシ教授の主張には眉つばで接するが、MITのような欧米一流どころの専門家の発言はコロリと信じ込む癖がある。新聞を読んだ丸の内界隈のエリートサラリーマンたちが翌日会社で、「レスター・サローがこんな発言をしているように、中国の統計数字はやはり信用できないね」と嬉しそうに語り合う光景が目に浮かぶ。

ここでサロー教授の第六感に異議を申し立てるつもりは毛頭ないが、中国の統計数字に問題が多いのは何も今に始まったことではない。「GDPが3%だって?SoWhat?(だからどうしたの)」と言いたくなるのである。例えば中国の今年上半期のGDPデータ。未公表の省も少し残っているが、全国29の省市自治区の内、28地域のGDPが全国平均の11.1%を大きく上回るという不思議な現象が起こっている。海南・天津・重慶・山西・寧夏・吉林・陝西・内蒙古・四川・湖北・福建・安徽・湖南は15%を超える大成長、全国平均を下回ったのは新疆ウイグル自治区(10.7%)のみである。企業会計の世界で、単体企業の数字を足し上げるだけでは連結決算にならないのと同様に、連結消去すべき個所が一部消去されずに残っているといった統計技術上の問題もあるのだろうが、それだけではあるまい。

中国の統計機関は政府の管理下にあり、地方に行けば行くほど行政の影響を受けやすい体質がある。特にGDPが地方官僚の業績評価の尺度となっている以上、どうしても実態を良く見せようという政治力学が働くのである。現状の中国GDP統計は学術的な観点から見ても決して満足のいくものではないが、経済の長期推移を見る上では、これに替わるものがない以上、われわれはブツブツ言いながらもこれを利用することに落ち着くのである。中国政府もこのモノサシに基づいて経済政策を決定しており、政策動向を予測する上で重要なデータであることは間違いない。読みづらいデータではあるが、要は政府統計のクセさえ把握しておけば実務に役立つ推計は充分可能である。企業の経営者が好況期に含み益を溜め込み、業績悪化の時には特別利益などの形でそれを吐き出すクセがあるのと同様に、GDP統計も好況期には過小評価、不況期には過大評価される傾向がある。

経済統計を司る地方官僚の置かれている立場を考慮するとGDP統計には上方バイアス(過大評価)がかかりやすいといえるが、一方下方バイアス(過小評価)にも注意する必要がある。民間企業にもその傾向が強いようであるが、道端の露天商やナイトクラブの経営者が売り上げを正直に申告するわけがなく、況やニセグッズの製造販売業者においてをや。中国において統計の網からこぼれている巨大な地下経済も見逃してはならない重大な要素なのである。

いずれにしても中国のGDP統計において、10%を達成すれば経済運営は合格、3%であれば経済失速といった数字の絶対値に大きな意味はない。中国の統計を鵜呑みにすることはできず、電力・石油消費量、PMI(購買担当者指数)など、地方官僚による統計バイアスがかからないような資料の精査や照合は不可欠であるが、ここで大切なのは経済活動という現実があり、それを把握する手段として統計データがあるという因果関係である。経済の実態を直視せず、ただ単に統計数字の相互関係に矛盾があるからといって中国の高度成長を否定するのは本末転倒であろう。サロー先生の中国成長率3%論も批判としては正鵠を射ているのだろうが、願わくは定期的に日経新聞紙上かどこかで発表していただけると大変有難い。われわれチャイナ・ウォッチャーもサロー教授の時系列統計として重宝させていただくのだが・・・。

経済分析において統計データが不正確であれば話にならない。中国の経済統計が徐々に改善の方向に向かっているのは事実であるが、世界各国から統計データへの疑念が呈されている今こそ政府から独立したGDP調査機関の設立が必要なのである。(了)

文中の見解は全て筆者の個人的意見である。

平成22年8月12日

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杉野光男(東洋証券 主席エコノミスト)

【経歴】

1974年
一橋大学商学部卒
同年
三菱信託銀行入社
1981年
上海華東師範大学へ留学
三菱信託銀行北京駐在員、上海駐在員事務所長、中国担当部長を経て2007年より現職
著書
「日本の常識は中国の非常識」(時事通信社)
「中国ビジネス笑劇場」(光文社) 等
【ひと言】
さまざまな矛盾を内包しつつ驀進する中国。その素顔をメディア情報だけでなく、現地取材、ネットや口コミ情報も交え楽しくお伝えできればと思います。腹を抱えて笑うジョークの中に、しばしば今の中国を理解するキーワードが潜んでいるものです。
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