巨龍のあくび
第57回:貧困よさらば
友人の何樫教授からグレゴリー・.クラーク(カリフォルニア大学デービス校教授)の「AFarewelltoAlms」を読めと勧められ、一大決心をして原書にチャレンジすることになった。なぜ読む気になったかといえば、本の題名が気に入ったからである。この書名の由来がアーネスト・.ヘミングウェイの「武器よさらば(AFarewellto Arms)」にあることは明らかである。アームズの発音が、武器(Arms)から、施し物(Alms)に置き換えられており、直訳すれば、「援助よさらば」もしくは「貧困よさらば」とでもなろうか。意気込んで50頁くらい読んだところで翻訳本(10万年の世界経済史=日経BP社)が出版されてしまい、やむなく(ではなく)これ幸いと日本語版に乗り換えてしまったのだが、正直なところ訳本が出版されなければ途中で投げ出していただろう。というのも、(弁解がましいが)本書は前半部分こそ圧倒的に面白いものの、後半はやや冗長のきらいがあるからだ。
アメリカの作家はケレン味を好むようで、本書の第一章はTheSixteen-PageEconomicHistoryofthe World(16頁でわかる世界経済史)と題されている。クラーク教授によると、世界の歴史を大雑把に3000年とすれば、そのなかで歴史の大転換点が訪れるのは西暦1800年の頃だという。紀元前1000年といえば大昔だ。中国は太公望が活躍した周の時代、西洋でいえばイスラエルのダビデ王やソロモン王の頃であり、この時代から西暦1800年までの約2800年間、世界の一人当たり所得はほとんど変らず、横ばいの状況にあったことが本書では一枚の図表を使って説明されている。
イギリスの経済学者ロバート・マルサスは有名な「人口論」のなかで、人口は等比級数的に伸びるが、食糧生産は等差級数的にしか伸びないと論じている。むかしの経済水準では食糧の生産性が向上しても、ネズミ算のように伸びる人口の増加には追いつけない。人口が増加すれば必然的に一人当たりの食糧摂取量が減少に向かい、食糧の分け前を巡って戦争や紛争が発生する。戦争が発生しないとしても栄養不足になればペストや天然痘などの疫病が猖獗し、これが人口を減少させる。2800年間「マルサスの罠」のなかでもがいてきた人類にようやく突破口が開かれるのが西暦1800年頃、つまり産業革命の時期である。産業革命によって歴史に大分岐点が訪れ、以後の世界は飛躍的に豊かになる国と、相変わらず貧困に沈む国との二極分解の時代に突入する。日本はアジアのなかで唯一勝ち組に滑り込むことができたが、アジア・アフリカ諸国は「持たざる国」として長く苦難の時代が続くことになる。
産業革命以降、列強は市場を求めて海外に積極的に進出する。それ自体に問題はないが、欧州諸国はいつの間にか、常に全力疾走で海外市場を拡大していかないと、本国経済が病変するという生理に苦しむようになる。わざわざ遠い海外まで出掛けなくても、国内市場を開拓する内需拡大策という手もあるのだが、戦後日本の農地改革のような痛みを伴う改革を国民に強いるよりは、武力を背景にアジア・アフリカ諸国を恫喝して門戸開放を迫る方が遥かに効率的であり、高い収益も期待できる。国際政治学でいう砲艦外交(GunboatDiplomacy)、棍棒外交(BigStickDiplomacy)がヨーロッパ諸国の市場開拓の原動力となり、これが帝国主義時代の幕を開ける。
産業革命の少し前、世界のGDPの約30%を占める圧倒的超大国であった中国は列強の侵略によって、目覚ましい技術革新と生産拡大という輝かしい時代に取り残されてしまう。人口も産業革命の時代に入ってから、飛躍的に伸びているわけでもない。中国の人口変遷の歴史は凄まじいものがある。あくまで推計だが戦国時代に約2000万人程度であった人口が、前漢末には約6000万人まで増加する。ところが王朝が変わり後漢の光武帝の時代になると、一気に2000万人に減少してしまう。時代が大きく下がり、隋・唐の時代になっても中国の人口は4000万人から5000万人程度であり、前漢時代の最大人口6000万人を回復するのは13世紀、宋の時代に入ってからである。
中国もマルサスの罠から抜け出せない時代が長く続いたが、新中国の建国後は人口増加が可能な時代となった。そして中国の人口は爆発する。戦前の中国の人口は約4億人であった。建国の1949年の人口が5.4億人である。それが70年には8億人、80年には10億人を超え、いまは13億人といわれている。いま中国で4億人といえば、それはインターネット人口を指す。
改革開放の時代に入り、中国も慌てて一人っ子政策や産児制限を始めたが、人口増加が一旦爆発すると誰にも止められない。実はむかし中国にも人口増に警鐘を鳴らした炯眼の士はいた。中国のマルサスといわれた経済学者の馬寅初(1882−1982)である。彼は1957年、社会主義国家においても人口増加は生産力発展の妨げとなると主張し、人口抑制を理論化した。彼は論文のなかで、啓蒙活動や避妊、晩婚等の処方箋まで用意している。しかし彼の主張は毛沢東により否定されてしまう。毛沢東は「要は食糧生産が人口増を上回ればよいのだ。人間にはモノを食べる口は一つしかないが、食糧を生産する手は二本あるではないか」と無茶苦茶な屁理屈を垂れて大学者を左遷してしまう。毛沢東の経済に対するレベルはこの程度だったのである。
中国政府は、今年の11月1日より全国の出生、死亡、婚姻、学歴等を把握するため建国以来6回目となる人口調査を実施する。予算は数十億元、戸別訪問などに動員する調査員は600万人と世界最大規模の人口調査となるようだが、統計漏れや虚偽申告も避けられず、正確なデータが得られない可能性もあるようだ。「上に政策あれば、下に対策あり」というとおり、2年連続で子供を産む、つまり年子の兄弟を双子として届けるなんて日常茶飯事である。全国人口調査の結果、子供の人口でいえば男子人口が女子を大きく上回ったり、双子出生率が異常に高いといった医者や統計学者が首をかしげるような調査結果が出そうな気がするのである。(了)
文中の見解は全て筆者の個人的意見である。
平成22年8月6日
杉野光男(東洋証券 主席エコノミスト)
【経歴】
- 1974年
- 一橋大学商学部卒
- 同年
- 三菱信託銀行入社
- 1981年
- 上海華東師範大学へ留学
三菱信託銀行北京駐在員、上海駐在員事務所長、中国担当部長を経て2007年より現職 - 著書
- 「日本の常識は中国の非常識」(時事通信社)
「中国ビジネス笑劇場」(光文社) 等
- 【ひと言】
- さまざまな矛盾を内包しつつ驀進する中国。その素顔をメディア情報だけでなく、現地取材、ネットや口コミ情報も交え楽しくお伝えできればと思います。腹を抱えて笑うジョークの中に、しばしば今の中国を理解するキーワードが潜んでいるものです。
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