巨龍のあくび
第56回:抜刀隊の歌
いまもそうだが、サラリーマン人生はストレスとの戦いである。むかし陰湿陰険な部長に散々苛められたことがあったが、へこたれずに踏みとどまり、ゲリラ戦でテキを駆逐したことがあるくらいだから、個人的にはストレスに強い体質だと思っている。とはいっても激務のなか精神の安定を保つのは大変だ。
状況にもよるが、一般的には海外勤務のほうが異文化との葛藤があるがゆえ、国内勤務よりはストレスが高いだろう。また一口に海外勤務といっても、ストレスの強弱は駐在する国にもよる。ハワイ勤務と北京勤務とどちらが疲れるか、結論は言わぬが花の吉野山だ。
またいまの中国とむかしの共産中国では全く状況が違う。中国の今昔を不快指数で比較すると、100倍は違う。つまらぬ嫌疑を掛けられて「公きみちゃん(公安部)」や「安あんさん(安全部)」に尾行された知人も多い。尾行するなら本人が気付かないよう、こっそり付けてほしいものだが、公ちゃんのやり方は、尾行に気付いてもらうことを目的とする威嚇尾行なのである。
ストレスが嵩じてくると、それを発散させる手段が欲しくなる。上海のカラオケバーの個室に陣取り、軍歌でもがなりたてようと思っても、隣には妙齢の小姐が座っており、チップを弾んで懐柔しても、敵地で軍歌を披露するには相当の勇気を要する。陸軍歌がだめなら海軍にしようとも思ったこともあるが、日清戦争を忘れていた。「勇敢なる水兵」で、瀕死の水兵が副長に「まだ沈まずや定遠は」と尋ねる「定遠」とは、北洋水師の旗艦であり、司令官は最期に毒を仰いで自害した愛国の士、丁汝昌である。清国は満州族の王朝だが、これも日中友好には相応しい歌とはいえない。結論からいえば、中国の方々に不快感を与えず(本人が思っているだけのようだが)、かつ勇ましくて元気の出る歌は「抜刀隊の歌」にとどめを刺す。むかしは、陸軍分列行進曲として使用され、現在も陸上自衛隊、そして抜刀隊ゆかりの警視庁が使用している名曲である。外山正一(東大文学部長)の歌詞に、明治政府のお雇いフランス人シャルル・ルルーが曲を付けたもので、曲が途中で何回か転調するため歌いにくい歌ではあるが、メロディーが素晴らしく、上海に駐在していた頃によく歌ったものである。
我は官軍我が敵は天地容れざる朝敵ぞ〜♪
明治10年、日本を二分する内戦に拡大した西南戦争は、徴兵制に基づく農民上がりの陸軍兵と、旧士族軍団との戦いであった。戦局は一進一退を繰り返したが、戦線が膠着してくると西郷軍は決まって日本刀を振りかざした特攻隊を最前線に投入し、チェストー〜!と示現流独特の猿叫えんぎょうを発しながら官軍に斬り込み、戦局打開を図ってくる。これが「抜刀隊」である。東郷重位を流祖とする薩摩示現流に受けはなく一撃必殺の剣法である。抜刀隊の突撃に対して農民出身の官軍兵たちは蜘蛛の子を散らすように、散り散りに逃げ回った。
これに業を煮やした官軍側も抜刀隊を組織することを決め、警視庁に勤務する羅卒のなかから、会津藩や長岡藩を含めた士族や剣術師範たちを募り「警視抜刀隊」を結成し、これを最前線に投入する。「抜刀隊の歌」とは警視抜刀隊の歌である。戊辰戦争はついこの前の出来事であり。会津の仇を鹿児島で晴らそうと眦を決し勇んで出陣した士族も多かったに違いない。
敵の大将たる者は古今無双の英雄で、これに従う兵つわものは共に剽悍決死の士〜♪
この歌詞には首をかしげてしまう。味方を鼓舞する行進曲のはずが、敵を絶賛するところから始まるとはびっくり下谷の広徳寺だ。西郷隆盛は明治維新の大立者、陸軍の巨頭として誰もが認める英傑ではあったが、西南戦争においては賊徒の張本ちょうぼん・日本駄右衛門のような存在なのである。「古今無双の英雄」はないだろう。それに従う兵士たちが「剽悍決死の士」であったことも疑いない。なにせ前線指揮官は桐野利秋である。別名中村半次郎、幕末の頃は「人斬り半次郎」と恐れられた筋金入りのテロリストである。西郷隆盛は桐野のことを遠慮がちに「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評しており、要は猪突猛進タイプ、三国志に登場する張飛、水滸伝でいえば李逵のような豪傑だったようだ。但し、白兵戦に学問の素養は必要ない。いずれにしても田畑で鋤や鍬しか握ったことのない農民兵たちが、白刃をきらめかせながら押し寄せる抜刀隊を前に腰を抜かしたのも無理はない。
鬼神に恥じぬ勇あるも天の許さぬ反逆を、起こせし者は昔より栄えし例ためしあらざるぞ〜♪
だから官軍方も負けじと警視抜刀隊を投入したのだが、警察部隊を投入するところがユニークである。そもそも、どこの国でも内乱が発生すれば先ず警察機動隊が出動し、それでも手に負えないときに軍隊が派遣されるのである。西南戦争はその逆だ。陸軍の手に負えないから、慌てて警察のなかに機動隊のような特殊部隊を編成して陸軍を支援するとは、ダンケルクで民間人たちが軍隊を救出したような極めて特殊な事例である。ただこの歌を読むかぎり、警視抜刀隊も薩摩軍には相当怯えていたようで、「たしかに敵は強いが、これまで反逆者が勝利した戦歴は過去にない」と、統計学的観点から敵の敗北を確信するという何とも頼りない予測なのである。
敵の滅ぶるそれ迄は進めや進め諸共に玉散る剣つるぎ抜きつれて死する覚悟で進むべし〜♪
最後は雪隠の火事、早い話がやけくそだ。勝つか負けるか知らないが、死ぬ覚悟で前進あるのみと結論付けて抜刀隊の歌は終わる。あまり科学的合理性のある軍歌とは思えないが、東京大学の文学部長による作詞ならばそれも仕方ないだろう。
しかしながら、軍歌とは内容を吟味しながら歌うものではない。気持ちよく歌えて疲れが取れればそれで良いのである。日中友好のため粉骨砕身、30年も働いてきたからには、たまには軍歌でストレスを発散させてもマルクス・レーニンの罰は当たらないだろう…と希望する。(了)
文中の見解は全て筆者の個人的意見である。
平成22年8月3日
杉野光男(東洋証券 主席エコノミスト)
【経歴】
- 1974年
- 一橋大学商学部卒
- 同年
- 三菱信託銀行入社
- 1981年
- 上海華東師範大学へ留学
三菱信託銀行北京駐在員、上海駐在員事務所長、中国担当部長を経て2007年より現職 - 著書
- 「日本の常識は中国の非常識」(時事通信社)
「中国ビジネス笑劇場」(光文社) 等
- 【ひと言】
- さまざまな矛盾を内包しつつ驀進する中国。その素顔をメディア情報だけでなく、現地取材、ネットや口コミ情報も交え楽しくお伝えできればと思います。腹を抱えて笑うジョークの中に、しばしば今の中国を理解するキーワードが潜んでいるものです。
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