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巨龍のあくび

第60回:読むクスリ

  エッセイスト上前淳一郎氏が長く週刊文春に連載し、いま文庫本で全37冊が出版されているコラム集の「読むクスリ」には「人間関係のストレス解消に」という副題がついており、本書に登場する企業戦士たちの苦労話や新商品開発に関する涙ぐましいエピソードには胸を打たれるものがある。ストレスと戦うビジネスマンにとってよき精神安定剤といえるだろう。
  今も昔も似たようなものだろうが、息を吸い込むだけでストレスが溜まる中国に派遣された日本人駐在員たちは瘴癘の地で精神の安定を保つべく必死に努力したものだ。ゴルフ場も日本料理屋もなかった時代のことである。ストレス発散のためには何か熱中できる趣味を持つのがよいのだが、書道や漢詩に没頭する日本人がそう沢山いるわけではない。漢詩や四書五経が三度の飯より好きなら大学の先生にだってなれるだろうし、駐在員として出稼ぎに来る必要はないはずだ。雅な世界とは縁遠い凡人たちは五言絶句を学びましょうと誘われても辛いものがあり、だから駐在員たちはより即物的な趣味を探すことになる。そのなかでもマージャンは駐在員に大変人気のゲームだが、その本質は偶然の輸贏を争う博戯であり、勝負が熱くなり負けが込み始めるとさあ大変だ。デフォルト宣言、つまり債務不履行となり支店長命令で社内に徳政令(早い話が借金棒引き)が発動された某社の事例を筆者は知っている。
  「万にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく・・・」と兼好法師もおっしゃるように、この際博打はやめて別の細道に分け入るという手もあるのだが、男女の天地は複雑怪奇なようで、ハニー・トラップではないが、中国のガールフレンドに財産を巻き上げられたあげくポイと捨てられ、本国の奥様からは離婚と、踏んだり蹴ったりの憂き目に遭った事例も多い。自己責任とはいえ結果は悲惨である。
  だから最も無難な趣味は本を読むかビデオの鑑賞である。人によって好みはあろうが、中国で駐在員に人気のある本といえば、無聊を慰めてくれ、読者に元気を与え、かつある程度長編で、難解では困るが読みごたえのある本が理想的である。ゴルゴ13シリーズやポルノ本も悪くはないのだが、すぐ読み飽きてしまう読み物は中国の暗くて長い夜には向かない。駐在時代の「読むクスリ」を思い出してみるとしようか。


  先ずは駐在国に敬意を表して、中国の四大奇書の筆頭「三国志」。この日本語版は昔から日本で数多く出版されており、最近では北方謙三版が大ヒットし、子供たちにはゲーム三国志が人気だというが、筆者の世代で三国志といえば吉川英治にとどめを刺す。ヒマなものだから原書の三国志演義も何冊か読んだが、エンターテイメントとしては吉川英治版や柴田錬三郎版の方が遥かに面白く、作品としての完成度も高い。出藍の誉の見本のようなものである。
  アレクサンドル・デュマの「モンテクリスト伯」も元気の出るクスリに入ろう。世界的ベストセラーの走りとなった作品であり、日本で古くは「岩窟王」、中国では「基督山伯爵」という題名で翻訳されており、その内容についてはいまさら紹介するまでもないだろう。エドモン・ダンテスを裏切り、彼をシャトー・ディフに幽閉する三人の悪人がその後政治家、検事総長、銀行家に立身出世するくだりを銀行員として複雑な心境で読んだものだ。そしてダンテスが彼らに復讐を仕掛ける手段が政治家にはスキャンダル、検事総長には身内の犯罪、そして銀行家には偽のインサイダー情報に基づく有価証券取引であるとは、160年前に書かれたとは思えない現代性を含んでいる作品なのである。
  三国志もモンテクリスト伯も、共に何度読んでも飽きのこない傑作であるが、読むクスリとして効能抜群は司馬遼太郎の「坂の上の雲」だろう。この作品に主人公は存在せず、つかさ・つかさで全力を尽くし日露戦争を勝利に導いた大山・児玉・山本・小村・秋山たちの矜持と責任感が読者を強く惹きつける。このコラムを書くために週末に本書をパラパラとめくっていた時、日露戦争を何とか回避しようとする外交交渉(第3巻)の場面が出てきた。小村外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間で行われた交渉で、日本はロシアの高圧的な態度に譲歩を余儀なくされ、呑めるぎりぎりの最終案として「お互いに日本の朝鮮、ロシアの満州における権益を認め、相互に犯さない」趣旨の提案を出した。ところが数日してロシア本国から届いたロシア回答は日本案の完全否定であった。満州の権益については「お前に言われる筋合いはない」と完全に無視、一方朝鮮の権益については「半分俺にもよこせ」と言わんばかりの回答であった。坂の上の雲によるとこの返答に接した小村外相は「史上これほど傲慢な回答はあるまい」と呻き、日本はこれで開戦を決意する。

  ところで9月26日の読売新聞にも「うめく」という表現を使った記事が載っていた。尖閣列島沖の日本領海内で起きた中国漁船衝突事件で沖縄地検が船長を処分保留で釈放したところ、中国政府は評価するどころか更に「謝罪と賠償」を要求し、読売新聞では「これに対して、政府筋は『尖閣諸島は日本の領土だ。日本の法律にのっとったことなのに、謝罪要求とはどういうことなのか』と呻いた」と報道している。
  この記事を見て「中国政府がこう反応するのは当り前だろう。こんな予想もできずに日本政府は容疑者を釈放したのかよ!」と新聞を読みながら、思わず一緒に呻いてしまった。リチャード・ニクソンによると指導者とは過去を現在に照合することにより未来を望見する技術を持った人物であり、だからこそ為政者は歴史に学ぶ必要があるのである。中国の外交パターンは単純で、過去の事例からその行動は容易に推測できる。日本が紳士的に対応すれば、弱みを持つが故の弱気な態度と解釈し国内にも喧伝する。日本が文明国の雅量を見せて寛大な態度をとると、日本敗北、中国勝利と宣伝する。日本は中国政府への対応を完全に間違えている。民主主義国家はいざ知らず、そうでない国に対しては、法廷闘争で多用される難解なレトリックではなく、誰にでも分かるストレートな表現で交渉を行う必要があるのである。しかしながら、今回の事件が日本を変えた好影響も見逃してはならない。中国政府の夜郎自大な対応を見て中国嫌いになった日本人は計り知れない。日本から更なる経済メリットを引き出し、高度成長のバネにしようとする中国にとって、今回の事件が経済交流に与えた亀裂は深刻であり修復は簡単ではない。結果的に両国何れの傷が深いかは明らかである。
  日本にとって幸いなことは日本外交の基軸は「日米同盟」にあるのか、それとも「日中友好」にあるのかといったナンセンスな議論がこれで一掃されることである。結果的に日本人に対し日米安全保障条約の重要性を再認識させてくれた秋の椿事ではあった。(了) 

文中の見解は全て筆者の個人的意見である。

平成22年9月27日

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杉野光男(東洋証券 主席エコノミスト)

【経歴】

1974年
一橋大学商学部卒
同年
三菱信託銀行入社
1981年
上海華東師範大学へ留学
三菱信託銀行北京駐在員、上海駐在員事務所長、中国担当部長を経て2007年より現職
著書
「日本の常識は中国の非常識」(時事通信社)
「中国ビジネス笑劇場」(光文社) 等
【ひと言】
さまざまな矛盾を内包しつつ驀進する中国。その素顔をメディア情報だけでなく、現地取材、ネットや口コミ情報も交え楽しくお伝えできればと思います。腹を抱えて笑うジョークの中に、しばしば今の中国を理解するキーワードが潜んでいるものです。
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