巨龍のあくび
第54回:偶然の輸贏とは?
パソコンを常用するようになって、(読めるが)書けない漢字が急激に増えている。これではいかんと思い、最近は筆記具と手帳を常に持ち歩き、メモをとるようにしているのだが、高級万年筆を買い集めても家人に馬鹿にされるだけで、漢字健忘症は一向に治まらない。先日中国から来た友人と焼鳥屋で一盞傾けたとき、漢字を忘れて困っていると愚痴をこぼしたところ、中国でもパソコンに起因する漢字忘却現象が広がりつつあるという。
漢字は古く中国に起源を有するが、いま中国で使われている近世以降の学術用語の大半は、日本人の発明によるものである。メイド・イン・ジャパン漢字は枚挙に暇がない。中国でも外国渡来の言葉を「外来語」と呼ぶが、これ自体もともとは日本語である。組織、規律、政治、共産党、方針、政策、申請、解決、理論なども全て日本製。更に科学、商業、幹部、社会主義、哲学、封建、共和など日本製漢字は数えきれないほどあり、中国における社会科学、人文科学、自然科学方面の専門用語のうち70%以上が日本からの輸入語だともいわれている。
中国語と日本語はもとより異なる言語であるが、両国民が知恵を絞って漢字のレベルアップに努力してきたという縁もあり、単語の意味はほぼ共通している。もちろん「手紙」や「湯」が中国ではトイレットペーパーやスープを意味するような例外もないではない。
日本に観光旅行に来た中国人がバスに乗ろうとしたら、乗車口に「毎度ご乗車いただき有難うございます」という看板を見てぎょっとしたという話がある。ひらがなを理解できない中国人は当然漢字だけを読む。毎度乗車有難、つまり交通事故かバスジャックか知らないが「乗車する度に難にあう」バスには怖くて乗れないというわけだ。こんな誤解もないわけではないが、中国人が日本の街角で看板や道路標識の漢字を見れば意味はほぼ理解できるはずである。漢字は極めて便利な道具である。問題は覚えるのに苦労することだ、特に画数が多い漢字は。日本人が大の苦手とする「憂鬱」や「臺灣」、「魑魅魍魎が跳梁跋扈」といった漢字は中国人だって覚えるのに苦労するのである。
そのなかで、日本人の大半が読めないが中国人なら小学生でも読める漢字がある。「輸贏」というやたら画数の多いこの字を「ゆえい」と読める日本人は、漢字検定1級レベルか、司法試験をトライしたことのある人、もしくは中国語を理解できる人の何れかであろう。輸贏の「輸」は負ける、「贏」は勝つを意味し、日本語で「勝ち負け」というところを中国では「輸贏(shuying)」と表現する。それでは輸贏という言葉は日本では使われないかというと、そうでもない。
夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかに「床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に輸贏を争っている…」と、ヘボ碁の場面が登場するくらいだから、この作品が書かれた明治38年、つまり日露戦争の頃の庶民には馴染みのある単語だったのだろう。だから明治の時代に制定された刑法にも輸贏という用語は登場する。
第185条【賭博】
「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯(ばくぎ)又ハ賭事(とじ)ヲ為シタル者ハ五十万円(★)以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス但一時ノ娯楽ニ供スル物ヲ賭シタル者ハ此限ニ在ラス」(★平成3年、50万円に改正)
早い話、いま相撲界の親方衆からフンドシ担ぎの諸君に至るまで、上を下への大騒ぎしているバクチに関する法律である。幸いなことに、この難解な法律は平成7年に改正され、すこしは読みやすい現代文となった。それにしても立法者はなぜこんなに難解な表現に拘泥するのだろうか。筆者以為らく、一つの理由はチンチロリンやオイチョカブ等という下賤な賭博用語は死んでも使いたくないという法律家の矜持、もう一つは法律に欠かせない用語の定義の問題であろう。185条のコンテクストにおいては「偶然」がキーワードとなっており、後白河法皇が「意の如くならざるは・・・」と嘆いたように「双六の賽」に代表される「偶然」が賭博罪を構成する要件であるようだ。それでは「必然の輸贏」、つまりイカサマ賭博の場合はどうなるのだろうか?賭博罪ではなくて詐欺罪なのか、それとも二つの罪が観念的に競合するのか、浅学菲才の身にこれ以上難しいことは理解不能で、考えると頭が痛くなりそうなのでここまでとする。因みに中国語で「博客」といえば、博徒ではなく「ブログ」を意味するので誤解しないでいただきたい。
それにつけても、日本の国技を揺るがす賭博スキャンダルは困ったものである。もし刑法185条が平易な表現で「野球賭博やサイコロ賭博をやったら罰金をごっそり取るから、娯楽の範囲内にしなさいよ」と書かれていれば、角界の汚染も水際で食い止められたのではないかと思うのだが……ご賛同いただけるわけはないか。(了)
文中の見解は全て筆者の個人的意見である。
平成22年7月26日
杉野光男(東洋証券 主席エコノミスト)
【経歴】
- 1974年
- 一橋大学商学部卒
- 同年
- 三菱信託銀行入社
- 1981年
- 上海華東師範大学へ留学
三菱信託銀行北京駐在員、上海駐在員事務所長、中国担当部長を経て2007年より現職 - 著書
- 「日本の常識は中国の非常識」(時事通信社)
「中国ビジネス笑劇場」(光文社) 等
- 【ひと言】
- さまざまな矛盾を内包しつつ驀進する中国。その素顔をメディア情報だけでなく、現地取材、ネットや口コミ情報も交え楽しくお伝えできればと思います。腹を抱えて笑うジョークの中に、しばしば今の中国を理解するキーワードが潜んでいるものです。
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